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双葉のしおり

読んだ本の感想と紹介をするブログです

矢月秀作『もぐら』

小説

ライトノベルから恋愛とファンタジーと若さを引いて暴力をぶち込んだような作品。


舞台は現代だし主人公は刑事をやめたおっさんだけれど、悪党をバッサバッサを倒していく様は爽快感がある……と思う。
喧嘩も強いし、元刑事の知識や人脈も使えるというポジションはなかなかにオイシイ。
文字作品だからライトノベルのようと表現したが、ノリは青年コミックに近いのかもしれない。


テンポの良い会話とアクションシーンのお陰で、サクサク読めるタイプの本で、好きな人はとことん好きだろうなと言う印象を受けた。
暴力シーンが過剰に感じられて、個人的には少し引いてしまった……

道尾秀介『月と蟹』

小説

ヤドカリを神様に見立ててライターで焼き殺すというのはいかにも呪術じみている。
「神様」に対する願い事も、嫌な奴を不幸にしてほしいとかお金がほしいだとか、(最初は)全く大したことのない願いばかり。
小さな生物をなぶり殺しにしておきながら、罪悪感であるとか、小さな命の尊さであるとかそういう部分には触れないし、物語においてもあまり重要でないという部分にゾクゾクした。

「子どもの無邪気な残酷さ」というよりも、作品全体に漂う「陰鬱さ」の一端ではないかと思う。
鎌倉の近く、海辺の町、季節は夏。
舞台はこれでもかというぐらい爽やかなはずなのに、この作品はいい意味で淀んだ海水のような雰囲気を纏っているように感じた。

奥田英朗『イン・ザ・プール』『空中ブランコ』

小説

数年前に「空中ブランコ」のタイトルで深夜アニメにもなっていた作品。
肝心の本編は色々あって見られなかったのだが、やたらビビッドな雰囲気のビジュアルだったのを覚えている。
本来デブで老け顔の伊良部が美少年だったり美少年だったりしていたようだが、映像作品でおっさんを見せられても面白くもなんともないだろうし、あの改変は英断だったのではないかと思う。

ともかく、伊良部のキャラクターがいい。
マユミもだんだん可愛く見えてくる。

読み始めの頃は「何だこの医者」と患者の側に立っていたのだが、2冊目を読み終わる頃にはいいキャラクターだなと思うようになった。
身近にいたら関わるのはゴメンだが。

話としては「女流作家」が一番好きだ。
書きたいものを書けず、完全にパターン化した恋愛小説ばかりを書く小説家の出てくる話だ。
シリーズ作品で2冊めの最後となると話も型が見えやすくなってくるが、丁度そのタイミングで収録されており、なんとなく皮肉めいている。
作中に奥山英太郎なる人物が売れない作家として名前が出てくるのも良い。

沼田まほかる『痺れる』 / 桜木紫乃『ホテルローヤル』 / 時雨沢恵一『キノの旅 19』

小説

短いのでまとめて3冊

沼田まほかる『痺れる』

ホラーだろうか、サスペンスだろうか。
不気味な雰囲気のある短編集。

ドキドキするような恐怖ではなく、どこか不安感を覚えるような話が続く。

桜木紫乃ホテルローヤル

一件のラブホテルを舞台とした短編連作。

最初に収められているのは既にラブホテルが廃墟になった時代の話。
少しずつ時代を遡ったり戻ったりしながら、最後には開業時の話が収められている。

スタートが廃墟なせいもあるのだろうが、常にどこか虚しい雰囲気が漂っている。

時雨沢恵一キノの旅 19』

ライトノベルはもうシリーズものの続編しか買ってないことに最近気がつく。
年をとったなぁ。

最近の巻は、キノ、師匠、シズ、フォトそれぞれの話が収録されるようになっている。
相対的にキノの話が減ってるのに若干の寂しさも覚える……

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

小説

いわゆる「ディストピアもの」である。

ひとつ前の記事にある『火星年代記』は非常に読みやすい物語だったが、こちらはそれとは真逆に非常に読みづらい作品だった。


華氏451度』を読もうと思ったきっかけは、『鏡の中の言葉』の訳者あとがきの中でこの2冊が同じ筋書きだと書かれていたからである。
なるほどその通りで、本や文章が規制されているという設定も近い。

『鏡の中の言葉』では、国家が言葉の意味を一つに絞ったことで冗談やメルヘンのない世界になった。
華氏451度』では国家による制約はより厳しく、焚書を通して思想や哲学そのものを否定している。
政府のあり方がより厳しい『華氏451度』の方がより暗く重い雰囲気を纏っている。

良し悪しではなく読みやすさで言えば『鏡の中の言葉』に軍配が上がるだろう。
ハンス・ベンマンがメルヘン作家なだけあって、冒険譚的な明るさと希望がある。
もちろん『華氏451度』にも希望がないわけではないのだが……

レイ・ブラッドベリ『火星年代記』

小説

数年前までSFというジャンルには全く興味がなく、触れることもなかった。
SFというと、宇宙戦争だったり、エイリアンだったり、ともかくそういう大味でやたらとサイエンティフィックなものだというイメージしかなかった。
食わず嫌いが直ったきっかけは『百億の昼と千億の夜』を読んだことだった。
阿修羅王というキャラクターの存在が兎にも角にも衝撃的で、なぜ今まで忌避していたのだろうと後悔したものだった。


SFとの出会いはここまでにして、『火星年代記』である。
長編という括りにはなっているようだが、短編連作といった印象に近い。
地球からの探検隊が火星に初めて着いた時代から、年代順にさまざまな人々の物語が並べられている。

作中で火星に最初の探検隊が到着したのが1999年、最後の物語が2026年のできごとである。
1990年から2005年までは毎年何かしらの物語があるが、2005年から2026年の間はない。
つまりほとんどの物語は今の時代よりも過去に位置していることになる。
(ちなみに『火星年代記』が著されたのは1950年)

読み手の年代と作中未来像のギャップは、この手の近未来モノ(かつ、時代が西暦で明記されているもの)では避けられない運命だ。
名作であればあるほど後世に残り、ギャップはどうしても広がっていく。
作中に描かれるような人間の業はたかが50年とちょっとで変わるものではないから、テーマ自体が色褪せることはない。
けれど、どうしても年代が出てくるとそこで現実に引き戻されてしまう自分がいる……少し悲しい。

もう一つ、違和感を抱いたのは火星に移住した人類の発展の速さだ。
移住が始まって4年ほどで火星の各地に街ができ、人が暮らしている……いくら火星に簡単に行けるほど科学技術が発達していたとしても、早すぎやしないだろうかと思う。

だがブラッドベリがアメリカの作家だと考慮すれば、分からなくもない話かもしれない。
二次大戦頃のニューヨークの写真を見たことがあるだろうか。
その次代の日本はといえばせいぜい数階建ての建物が並んでいる程度であるのに、ニューヨークには既に高層ビルが立ち並んでいたというではないか。
火星年代記』が著されたのは冷戦の時代を迎えてからではあるが、それでもアメリカはずっとずっと豊かだっただろう。
そもそもアメリカという国の成り立ち急激なものだ。
火星に作られた地球人の町が恐るべきスピードで発展してゆくと想像してもおかしくないかもしれない。

ハンス・ベンマン『鏡の中の言葉』

小説

引き続きハンス・ベンマンの作品。

随所に寓話の挿入されるファンタジー。
メルヘンを寓話と訳すことについては賛否両論あろうが、『鏡の中の言葉』においてはかなり教訓的な内容のものが多いので、今回に限っては「寓話」で問題無いだろう。

実際の雰囲気としてはSFに近いようにも感じるのだが、とりあえずはファンタジーと分類しておく。

物語の舞台は、言語が政府によって制限された国。
主人公が知人に出した手紙を出版、という形式をとっている。

政府による言語の制限は「言葉の意味は必ず一つ」というものや「時制がない」など。
ただ、言語の多義性云々という問題よりは「メルヘンのない世界」を描きたかったように見える。

というのも、物語の大筋よりも間に挿入されるメルヘンのパートの比重の方が重く見えるのだ。
『石と笛』よりも『千夜一夜物語』のような枠物語の要素が強いように見える。

悔しいのは原文を読むのと訳されたものを読むのとの差があまりに大きいことだ。
「言葉」が重要なキーなのだから仕方なくはある。
訳者もさぞ苦労したことだろう。